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2013年4月15日 (月)

20代最後としてのオーディオ私観

書棚からスッと一冊の本を取り、ページをめくる。表紙は鮮やかな赤に
染まったガルネリ・メメント。その本には数々の名機があり、特集として
AVALON Diamondが綴られている。
そしてオーディオ評論家 菅野氏による-レコード演奏家訪問-。

Stereo_sound_no158

20代の初めに、興味本位で書店でStereo Soundを初めて手にとった時、
レコード演奏家という特集を見た。思わずその表現に吹いてしまった。

「レコード演奏家って何だ?レコードを聴くだけの人が演奏家を名乗るとは
 なんという滑稽か。」そして、奇妙な形をしたB&WのNautilus 802。
「世の中には酷く変わったスピーカーがあるもんだ。」と、しかめっつらに
なり、「しかも額も桁違い。私には無縁の世界だ。」と店頭にそっと戻した。

それから幾ばくかの時を経て、私のオーディオ人生は凄まじい速さで
駆け上がった。

Stereo_sound_no158_avalon

20代最後。ここで約10年間のオーディオに対する考えを総括したいと思う。

総括という行動にあたって、一瞬戸惑った。
私はまだまだ見識が狭いかもしれない、そして経験も少ないかもしれない。
確かにそれを自覚していたからこそ、敢えて語ってこなかった領域がある。

しかし、まだ20代という若さであれば、オーディオの一つや二つ
(実質的には相当であるが・・・)を語る「過ち」を許されるかもしれない。
読者には自明的なことであったり、少々苦しさや恥ずかしさを与えて
しまうかもしれない。

しかし、この若さゆえの直線的だった勢い、若さゆえに感じて
考えてきたこと、そして若さの締めとして、いまここに綴る。

-章題-

 0.「音楽」に対する考え
 1. オーディオ全体に対する考え
 2. オーディオ機器・環境に対する考え
 3. 私のオーディオ活動
 4. レコード演奏家
 5. オーディオ総括

-記述するにあたり-

本私観では、次の2点にポイントを置く。
 ・約10年間の活動から得たオーディオへの認識
 ・認識から形成された、オーディオに対する私の考え・態度

これは、この約10年間で結局私は何を認識し、そしてどういう考えで
今の現在のオーディオシステム、
-AVALON Diamond/ガルネリ・メメント-
を作り上げたかを示し、記録したいからである。

なお、この2点を記述するということは、すなわち次の意味も含んでいる。

それは私が現在認識していることを書くことによって、
逆に、現在においては(未だに)認識していないことが私・読者に
露呈されること。これは今後の課題となり得る。

そして、考え・態度はあくまで20代でのことに過ぎないこと。
考えというものは、認識以降に成り立つ。それゆえ、今後の経験によって
私の認識が今後増えれば(変化すれば)、そこから考え・態度が大いに
変わる可能性があるだろう。

だからこそ、この瞬間を記録するため、ここに綴る。

0. 「音楽」に対する考え

オーディオの前にまず語るものがある。それは、オーディオシステムから
出てくる音であり、再生される「音楽」そのものについてである。
この音楽があって初めて、オーディオは存在する。

音楽に対する畏敬の念。

これを抱いたのは、小学生の頃だった。音楽の授業で、ベートーヴェンの
交響曲第5番をCDで聞かされた時のこと。
「運命」と言えば、「ジャジャジャジャーン」というおなじみの旋律で
小さい頃から、その旋律だけはよく知っていた。そして、
それはあまりにも突然的で悲劇的な曲だろうと忌み嫌っていた。

しかし、授業で流れるその曲は、途中から世界を変えた。
こんなにもおだやかで暖かい世界があったのか。悲劇のあとには、
喜劇のような明るい世界が待っているのだろうか。たおやかで、豊かな。

小学生の時、私は家庭や学校での事情で相当まいっていた。
下校時、一人でじっと歩道橋の下を見ていることもあった。

そのようなこともあったせいか、小学生ながら、「人生苦しいけど、
人生というのは不幸ばかりではなく、幸せの道も用意されているのかも
しれない。」そして、涙した。

私はそのような状況の中、学校の設備を通して「音楽」と出会った。
その時聞いたベートーヴェンは力強く、そして優しく、人生には変化が
あるかもしれないという可能性を教えてくれた。

(音楽室に置いてあったスピーカーは(興味が無かったので)あまりよく
 覚えてないのだが、ボロボロであったが大きな大きなスピーカー
 だったと記憶している。)

音楽というものは全く不思議なもので、自然界には存在せず、
人間の天賦の才からのみ生み出される。人間はその生み出された音楽で
歓喜し、歓喜され、泣き、哀悼し、時に狂乱する。

私はそれから多くの音楽を聴くようになった。そして、10代は良く歌った。
20代になってからはその音楽で踊るようにもなった。大学の頃から音楽の
幅も広がって、アニソンというジャンルにも出会った。

  (オーディオをする以前は音楽に接するのはオーディオ機材を
   通してではなく、生演奏の方が多かった)

音楽には様々な曲があるが、音楽というものは、人間だけが有する
言語という枠組み・理解形式を飛び越えて、「私」を直接揺さぶり、
突き動かす。

私は、この、「私」の世界にぽーんと飛び込んでくる感覚が
好きでたまらない。
そして敬意を送る。例えどんな曲であろうと。

これが私の音楽に対する認識であり考え・態度である。

1. オーディオ全体に対する考え

ここではオーディオ全体に対する考えを述べる。述べるにあたり、
考えに至ったプロセスも重要であるため、既に記事化した内容もあるが、
改めて時系列的に述べる。

1.1 きっかけ
オーディオのきっかけ大学生時代、アルバイトで知り合った先輩の
お宅に伺ったときのことだった。

サッカー好きの先輩はBOSE 101MMGというスピーカーとAVアンプを
接続して、その時はTVでサッカー観戦をしていた。

部屋に入るなり私は驚いた。部屋中に音が飛び交い、体が音に包まれる。
初めての経験だった。
今思えば、あの時聴いた音は、AVアンプのサラウンド化機能とBOSE
特有の低音によって加工された音に仰天したにすぎないのだが、極めて
重要なのは、その時「オーディオ機器でこんな音が出せるのか」という
-オーディオで感動した- ことだった。21歳の冬であった。

ちなみに、そのきっかけ以前、オーディオ機器というものは所有してない
わけでは無かった(所有していた)。

何せ、高校の時、SONYのMD-CDコンポ「JMD-7」(人生初コンポ)を
買うために、正月の年賀ハガキ配達と、出前のアルバイトを掛け持ちで
していたくらいだ。(発売されてから結構時が経っていたので、約半額で
買うことができた。)
しかし、そのコンポの選択基準は音ではなく、デザイン性と機能性だった。
購入時に色々な機器を比べたが音は・・・正直違いがよくわからなかった。
高校生だった当時はライブやピアノを聴いて、その音楽が断トツに楽しく、
体に音ぶつかってくる音が好きだった
私には、オーディオは音を聞くためだけの装置だった。

1.2 オーディオのスタート
私はあの「きっかけ」となった体が包まれる音を自宅で味わいたいと言う
思いから、先輩と同じようにスピーカーを使おうと考えた。
それから、より良い音を聴きたいという思いに変化し、スピーカーという
手法を継続した。これが、ピュアオーディオと呼ばれる世界へ突き進む
結果となった。

さて、まずここで語る「オーディオ」について明確にしておく。
オーディオは音を再生(録音)する機器で、実に様々な機器が存在する。

それら機器は様々なジャンルに区分できるが、私が対象とするのは、
いわゆるピュアオーディオで、以下の通りである。

 ・再生に特化する
 ・再生にあたって、機能毎に筐体が分離していること
   (単品コンポであること)
 ・用いるスピーカーは民生用で数は二つ(ステレオ形式)
 ・製品であり、「極めて」高音質であることを指標したもの

端的に、私はステレオで極めて高音質で、録音された会場の雰囲気さえも
再現できるようなオーディオを対象としている。

Goldmund_2   

したがって上記に適さない理由で、或いはその他の理由で、
次の領域は対象外としている。

 ・業務用スピーカー(PA,アクティブスピーカー)
  →音が荒い物が多く(録音の粗を出す事を目的として創られているため)、
   ゆったりとしたリスニングには不向きであるため。

 ・イヤホン・ヘッドフォン
  →音が近すぎることが苦手で、現実的な音では無いため。
   部屋でゴロゴロしながら聴く事も好きで、ケーブルと
   頭に装着すること(耳に付ける)のが苦手なため。

 ・マルチチャンネル(多数のスピーカーを配置した5.1ch、7.1ch等)
  →入手可能な音楽CD、SACDの多くは、2chステレオであって、
   そのソースのみで十分であると感じているため。

   そして資金不足。本当にマルチを再生するのであれば、
   経験上、全て同一のスピーカー(少なくとも同一シリーズ)で
   揃えるのが相応しい。
   資金に制約があり、5.1chサラウンドを収録したSACDが少ない中で、
   敢えてそれを求めるよりは、2chソースの再生に特化(機器の
   クオリティアップ)をした方が良いと考えた。

 ・ホームシアター
  →映像機能は不要。とことん音楽再生に特化したいシステムを
   目指したため。
   スピーカーの数については、マルチチャンネルの理由と同じ。

 ・ゼネラルオーディオ
   (音質よりも技術的に廉価化を目的としたミニコンポ等)
   →これらは音をただ聴くための道具に過ぎず、単純に、
    理想とする音が出ない。

 ・自作
   →電気工作の知識・経験が無い。(情報系なら多少ある・・・)
    今後は手を出す可能性もある。

対象とするオーディオが明らかになったところで、スタートから
現在に至るまでを述べたい。とは言っても、10年の中で猛烈に
変化をしてきて、全てを記述するには頁が足りない。
そこで時系列的に3段階に分けて述べる。

 ------
 (1)感動の再現を求めた時期

 (2)良い音を探求した時期

 (3)感動の再現を選択した時期
 ------

 (1)感動の再現を求めた時期
  最初の動機は、オーディオでの感動、あの「きっかけ」を再現したい
  という強い思いからだった。
 
  当時私は機器に関して無知。私はさっそく、先輩と同じメーカー、
  BOSEの201Vというスピーカーを購入した。同じ型番にしなかったのは、
  購入にあたり、色々と聞いて、201Vの方が低音が多いからであった。
  その時のソースは鬼束ちひろの「眩暈」。私は「眩暈」の低音部分に
  強いこだわり、いや思い出があった。

  高校の時、同じクラスで車に乗っている友人がいた。
  そしてカーオーディオにもかなりこだわっていたようである。
  その友人も鬼束ちひろが好きで、車内で「眩暈」が流れ始めた。
  さびに入った直後に車内にぶわっと広がる量感たっぷりな厚い低音。

  何コレ。

  こんな世界があったの・・・?音は車内で反響して、幾度となく私に
  ぶつかり、包んでくる。すごい体感だった。

  その音に近い低音が出るのが、このBOSE 201Vだった。

  接続予定の機器は、手持ちのSHARPの1bitアンプ内蔵DVDプレイヤーだった。
  (ホームシアター用の廉価製品、SD-AT100)

  Sharp_sdat100 
  
  BOSEを接続。音が全然鳴らない。低音が全く出ない。
  私はオーディオに関してかなり無知だった。

  早速雑誌ステレオを購入し、ブックシェルフの鳴らし方を
  読みセッティングで変わる事を知った。スピーカー間の距離や
  方向性、インシュレーターの設置など、試せることは全部試した。

  確かに設置方法で音が変わるが、自分を包み込むような低音が出ない。
  スタンド導入でさらに追求するという手段もあった。
  しかし、それよりも当時使っていたアンプ内蔵DVDプレイヤーは
  付属の小型のSPを接続することが前提と知ってから、雑誌を読み、
  読み(影響され)、単品アンプ(プリメイン)の購入を考えた。

  もし、この時、AVアンプに進んでいたら・・・今のオーディオ生活は
  結果はまるで違っただろう。

  なぜAVアンプに進まなかったかというと、先輩の使っていたAVアンプは
  高くて予算外だったから。(30万円クラスだった)
  そしてこれも無知なのであるが、AVアンプはAVセレクターにアンプが
  内蔵されたようなものでしかないと誤認していた。
  当時の私は、AVアンプはミニコンポとは違い、AVアンプには
  強力なサラウンド機能があることを知っていたら、
  AVアンプを導入して、オーディオ人生は終っていたかもしれない。

  この時の認識とそこから下した選択・結論は悪かったのか、
  正しかったのか・・・

  振り返って、良かった(正しかった)と断言できる。

  購入したアンプはプリメインでDENONの1500シリーズだった。
  実際に試聴して、予算の中で低音が良くでるからという理由で
  購入に至った。
  
  結果は、出なかった。これはBOSEを買ってから2ヶ月間の話だった。
  私はその感動を・・・忘れられず、諦めなかった。

  そして、そもそも普通の2本のスピーカーであんなに包まれて、
  車で聞いたような低音が出せるのかと疑問に思った。

  この際、量販店に置いてあるスピーカーを全部聞いてしまおう。
  私は、過去の感動の再現を求めた。
  
 (2)良い音を探求した時期
  私はヨドバシカメラ、ビッグカメラ等の量販店で手当たり次第
  スピーカーを聞く中で、1機種、異彩を放つスピーカーがあった。

  鬼束ちひろの声がどこまでも伸びて、そして力強さがある。
  B&Wの705であった。魅入られた。

  Bw_705_2005
  
  2ヶ月早々でBOSEを売り払い、B&W705導入した。今度はスタンドも
  併せて購入した。

  伸びる歌声。力強い。しかし、B&W705を実際に聞いて、どこか
  耳が痛くなる現象が現れた。いわゆる聞き疲れである。
  確かにB&W705のDENONの組合わせは力強さがあるのだが、
  高音域に並ならぬ力強さがある。そして、音色が乏しい。

  私は、どうにかならないかと考えた。またも量販店で聞き比べた。
  そして、アンプでかなりの変化があることを感じた。心地良さと
  いう点ではLuxmanが(国産アンプで)相当に秀でていることが分った。

  このときの私は、もはや、「過去」の感動の再現を求めていたので
  はなく、「現在」の不満点の改善と、さらに「現在」での良い音を
  求めるようになっていた。

  それからLuxmanのアンプ(L509fSE)を導入し、スピーカーは
  B&805を導入した。

   L509fse_2005_2
  
  B&W805は、今までのオーディオ経験を覆すもので、
  スピーカーが消える現象に初めて遭遇した。

  それは、スピーカーから音が聞こえるのではなく、
  何も無いところから音が聞こえてくると言う現象である。

  さらに、小学生時代の感動が再び蘇った。

  ベートーヴェンの第5番。
  それまでのシステムで聴いていた5番は主旋律のみが単調に聞こえて
  くるものであって。さすがに家庭であのコンサートを味わうのは
  不可能だという認識であった。しかし、B&W805は意図も簡単に
  その認識を覆した。スピーカーから複数の音が飛びだし、主旋律は
  実は、幾重にもわたるメロディーの総体であることが手に取るように
  わかるのである。
  その上、悲劇的、突然的と思っていた「ジャジャジャジャーン」が
  空間にふわりと広がり、響きに「間(ま)」を感じた。そこから私は
  この旋律は一方的な厳しさだけではなく、悲劇に対して一時の猶予と、
  私が悲しむ「間」、即ち受容性をもっていることに気付いた。
  ベートーヴェンは、この5番において、曲の出始めから、
  一種の温かさ・受容性を提示・予告していたのである。
  小学生の頃の感動が蘇り、そして新たな境地が見えた。

  B&W805は相当に良い音であった。時に感嘆するくらい。

  ところで、私は量販店で各種視聴する中で、私はDALIのメヌエット
  というスピーカーにも魅入られていた。聞こえてくる音が美しいので
  ある。特に人の声が温かく、聴いていてホッとする。

  良い音というのは、色々ある。試聴体験からそういう結論に至った。
  (私は、次第に試聴は量販店では無く、専門店で行なうように
  なっていた。)

  作曲者は、自身の思い描く世界を現わす為に最適な楽器を選ぶように、
  オーディオというものも、ジャンルにあわせて最適なものがあり、
  私は出来る限り、音楽という崇高なものを家で最高の環境で堪能したい
  と思うようになった。
  
  そして、その良い音を求めるあまり、その結果、普通では有り得ない
  状況になっていた。

  3sp
  ※これらスピーカーはあくまで撮影用によせ集めただけです。
    本来は別部屋で設置・セッティングしていました。

 (3)感動の再現を選択した時期
  良い音というものは、結局私が感動できるかであり、そして
  良い音を知るということは私は何を好むかということを
  知ることでもある。

  そして、私の好む音の実現には、制約がある。資金的・場所的。
  そのためオーディオシステムの導入・設置には制限がある。

  それゆえ、オーディオをする上では、まずオーディオで実現できる
  音を知り、それから次は、どのような音で音楽を再生させたいかと
  いう己自身との(激しい)対話が必要になってくる。

  私は、その対話をすることなく、魅了されて欲しいと思った機種を
  購入し上記画像に至った。しかし、さすが3セットを維持するだけの
  場所やそれに合わす最適なアンプは持ち合わすことが出来なかった。
  
  己と対話し、感動を再現を「選択」をする時間が来た。

  私は、ガルネリ・メメント、SP25、B&W 805Sの中から、
  ガルネリ・メメントのみを残し、その他は処分することにした。

  聞き疲れせず、求めるボーカルの美しさと弦の豊かな鳴りが特徴的な
  ガルネリ・メメント。低音は頑丈なスタンドに支えられて、
  ブックシェルフとは思えない、一段ガクッと下がったような確かな
  低音が響く。そして切れ味と響きを両立している。甘美な世界に
  私は惚れ込み、感動した。

  同じソナスのアマティやストラディヴァリは流石に(当時は)買うことが
  できなかった。加えて、特にアマティは低音を鳴らすのに苦労する
  だろうと予測した。
  事実、鳴らしにくい。高価なものアンプを使えば良いというものでは
  なく、これは経験上、アンプの泥沼になる予見していた。
  (これは私が一時期ソナスのクレモナを使っていたことや、
   各オーディオショーで鳴らないアマティを聞いてきた。)

  SP25も優しい音の部類に入るのだが、ガルネリ・メメントには到底
  かなわなかった。そういう基準で、ガルネリ・メメントだけを残した。

  Guarneri_memento
  
  この感動は、本物だ・・・そう思った。

  しかし、認めなければならない事実が一点あった。
  それはガルネリ・メメントではピアノが鳴らないということだった。

  ピアノの再生に関しては、非常に強い思い入れいや、拘りがある。

  それは、やはり学生時代の体験からであった。
  私は、中学・高校で生徒会長を務めており、校歌斉唱の際は
  壇上に居て、伴奏者の次にピアノから近い位置にいることが多かった。
  ピアノは若者が歌う歌声に厳粛さを付与する。そのピアノ堂々たる
  音色に只ならぬ敬意を表していた。
  
  そして、合唱が好きだった私は、伴奏付き合唱というものは、
  ピアノという強固な岩盤に支えられて、歌声が対極的に鮮やかに
  浮かび上がるものだと感じていた。合唱を聴くときは、
  歌声、ピアノが織りなす融和と対極性を楽しんだ。

  ピアノの透き通る高音。一瞬強い打鍵の音が聞こえてくると同時に、
  凜とした直線的な音が上方向に音が響く。そして、放たれた音が
  空間に満ちたとき、弦の振幅が減衰し始めたとき、緊張は失われ、
  ゆっくりと音がほどけていく。

  低音は対極である。アタック音とほぼ同時に重力に引っ張られるかの
  ごとく急激な下降を始める。そして、床を轟かし、その反射で
  低音が浮上し、我々の前にゆったりした姿を現わす。

  ピアノは、同じ楽器と思えない程、多様性を含んでいる。そのを
  一つだけ見せるときもあれば、同時に見せることもある。そして用途に
  応じて姿を見事に変える。私は、このピアノを最重要視していた。
  と、同時にその多様性を再現することがいかに難しいかを
  数々の機器を通して痛感させられた。

  オーディオでピアノが現実通りに鳴らないのであれば、
  オーディオでピアノは聴かない。
  これが、私のピアノへの敬意であり、態度でもあった。

  さて、ピアノを犠牲にして、それを分っていて選んだのが
  ガルネリ・メメントであるが、一つ、極めて大きな誤りを犯した。
  それは、「飽き」という人間には避けて通れない宿命を知らず、
  それに対応すべく、もう一つ違う音色のスピーカーを残さなかった
  事だ。

  何か熱中する趣味というのは、オーディオが初めてだった。
  そのため、長年同じものに対面していると、人間は飽きる
  ということを知らなかった。そして、ガルネリ・メメントの音は
  美しすぎた。あざといとまでは行かないが、音楽に美しさを
  付け加えすぎていた。
  少し、違う音に触れ合いたかった。
  
  そして、どうせなら、と思った。

  私は2008年のインターナショナルオーディオショーで、
  空間を変化させて、全く違う空間に作り変えることができるという
  オーディオに出会い、感動した。二つのスピーカーはそこにそびえ
  立っているだけなのに、その場に、ディスクに収められたステージを
  再現させる。そして、強烈な、只ならぬ音楽の精神世界を見た。

  2008_avalon_isis

  このマジックとでも言えるスピーカーを世に送り出したのは、
  ニール・パテルという人であり、AVALONというメーカーだった。
  ニール・パテルの哲学は「開発は感動からはじまる」であり、
  その音楽の感動をそのままリスナー=私に提示してくれた。
  
  私は、初めてオーディオの神髄を認識させてくれた、
  「AVALON」を導入する決意に至った。
  27歳の時であった。

  そして、機種の選択であるが、経験上、そしてネット上の多くの
  先輩を見るに、オーディオは中途半端に選ぶと買換えスパイラルに
  陥ることが十分に予測され、結果的により多くの代償を支払う事に
  なることを考慮した。

  しなやかで少し妖艶な音、非常にきめ細かく、低域がもたつかず、
  全ユニットが有機的に繋がり、極めて現実的で実際的な音を出そうと
  する機種。チタン、セラミックツイーターを搭載した下位モデルと
  一線を画し、音をツイーター色に染めないダイアモンドダイアフラム
  ツイーターを有する機種。

  AVALON Diamondである。

  ISISは私には高額すぎた。そして巨大だった。
  TIMEはダブルウーファーの処理、即ちアンプの選択が極めて難しいと
  各種オーディオショー、ショップで聴いて判断した。

  現実的なサイズの許容範囲で、超解像度・超立体感・超静寂感を
  実現できるもの。それがAVALON Diamondである。

  迷いは・・・一瞬だけであった。しかし、実際に試聴をした際、
  AVALON Diamondから解き離れた音楽は実に自由に飛び回り、
  音楽の神髄を徹底的に見せてくれた。そして即決した。

  2012_avalon_diamond_hayate

  AVALON Diamondが我が家に運び込まれたその日、
  初めて家でピアノが鳴った。

1.3 オーディオ全体に対する私の考え

オーディオは、音だけによる純粋な世界を作り出す機器である。
そして、音だけの世界に対峙することによって、作曲者、あるいは
指揮者や奏者、歌い手が表現しようとした世界に触れることができる。

そもそも、人間の特性として、人間は普段視覚に頼りすぎていて、
視覚情報に囚われている。

しかし、それを廃した世界、聴覚だけの世界になった時、
私の世界は音だけになり、視覚情報が有ったときには認識できなかった
極めて細かい音の表現やダイナミズム、そして、総体である
「音楽の顔」がより明確に顕現する。オーディオの本質はここにある。

これがオーディオ関する私の根本的な考えであり、2年前に書いた
「ピュアオーディオの本質を考える」である。
この考えは今も基本的には変わっていない。

だが、それからさらに色々なオーディオを聞き、実際に素晴しい
プレイヤー、アンプを導入して、そしてオーディオ以外の分野に
携わることで、その認識、考えは発展した。

結論として、オーディオとは、作曲家の精神世界に近づく、より進んだ
技法であり、大胆に言ってしまえば、生演奏を超えるものである。

この結論に至ったのは、作曲家の立場で物事を考えたことが
発端である。そもそも、作曲者は表現せんとする世界をなぜ
音を使って現わすのか。
それはその世界は音でしか現せず、音による伝送が最も適切だと
判断したからだ。
時には、作曲家だからという商業的な理由で音楽を作る場合がある。
しかし、そういった場合でも、作曲家は表現しようとする世界と
音を紐づける努力を行なっていて、その結果に他の情報は含まれていない。

いや、正しく言えば、その世界は人によって様々な形態に変化させる
することが可能である。例えば、悲愴という世界を現わす場合、
どうするか? 絵で表わす人は画家であり、立体的に現わす人は
造形家であり、言葉で表わそうとする人は作家・作詞家である。
そして、音楽で現わそうとする人が作曲家である。
作曲家が作曲家で有る理由は、世界を音楽で現わそうと判断したからに
他ならない。そして作曲家は世界を極めて正しく音に変化させようと
試み、その過程においては、色や言葉を思い浮かべるかもしれないが、
それでも作曲家によって最終的に生み出されるのは音だけなのである。
その時、楽器は音楽を奏でる手段であって、その世界にあった音が
出れば良いのである。

そこで、改めてオーディオというものを考えてみる。
オーディオも音だけの世界である。他の情報はほぼ皆無である。
オーディオに用いるディスクは、録音時、その場のノイズを徹底的に
抑えて、且つその場にあったはずの視覚・嗅覚をバッサリと捨て、
音楽だけが切り抜かれている。
一方、作曲家は最終的に音だけを生み出す。
互いに音に集中することで、不要な情報や、楽器などの媒介の視覚的
存在も消え、その人の思い描いた世界へ音を通して直結するのである。
これはオーディオの特質、本質であって、生演奏に優位する点である。

では、一体オーディオと生演奏は何が異なり、優位と言えるのか。
それを明確にしよう。

人間の特性として、先に書いたとおり、視覚情報に囚われすぎていて、
加えて、嗅覚、触覚という音にとって邪魔な感覚がある。
コンサート、生演奏においては、たった1人で聴く事はできず、
他人と一緒に聴く事がほとんどである。そういった場合、
他人から動きから発生する音(咳きやライブであれば歓声)、
慣れない会場等のにおい、隣の席の人が動く振動など、
目を閉じたとしても、余計な成分が含まれすぎている。

本質を見抜く力がある非凡であれば、見向きもせず、集中しきるが、
凡人にはなかなか難しい。そんなこともあり、生演奏においては
精神世界に突入することが出来ず、音楽の響きを楽しむだけに
とどまってしまう。

その点、オーディオは音に純化した世界を提示するものであって、
作曲家の精神世界との繋がりやすい。ここに優位性がある。

もっとも、生演奏に何を求めるかによって、オーディオの位置付けは
変わってくるだろう。例えば、生演奏で奏者の技法を見たいという事で
あれば、オーディオより生演奏がはるかに優位に立つだろう。
あるいは生の音を聴きたいという人(そういう人はオーディオの可能性を
知らないか、あるいはあくまでディスクでは絶対に収録できない生の
響きを求める人)は、生演奏が良いのである。

しかし、音による表現者の精神世界に触れる場合は、オーディオの方が
断然に勝っている。

そして、もう一点付加するのであれば、オーディオというのは
何度も同じ曲を聞き直せる。これはコンサートには絶対に無理だ。
2,3回程度なら可能だろうが、100回連続で聴くことは無理だ。

実際、私は後者のように同じ曲を何度も聞く。そして、表現技法の
細部の細部まで聞き、その音楽を楽しみながら、作曲家(指揮者etc)の
表現する精神世界へと近づこうと挑む。すなわちその行為は、
最終的に精神世界の顔がぽーんと現れることへの期待であり、
同時にその世界に「私」が没入することを期待しているのである。

※そういう点から考えると、麻倉怜士氏のCD2度がけは(極めて
 一部であるが)納得できる部分もある。CDを複数回かけることで、
 その音楽、曲の特徴、細かい表現技法をより多くより深く
 認識できるようになる。オーディオにおいては、その機器の特徴が
 あらわになる。あくまでこれは認識の問題であって、麻倉氏が主張
 する機器のパフォーマンスの向上にはよるものではないだろう・・・。
 
長々と書いてきたが、結局の所、私にとって、オーディオはそういう
精神世界をつなぐインターフェースとして考えていて、それを目的として、
その繋がりに魅了されて、オーディオを行なっている。
私にとって、オーディオとは、生演奏の(劣化した)代替物や生では聞けない
からという諦めの産物でもではない。
積極的に作曲者の精神世界と繋がることを目的としたもの、
それがオーディオ。
これが私のオーディオに対する考えであり、その考えに基づき、
AVALONを選択し、それを活かすプレイヤーアンプ導入してきた。

なお、上述のように飽きという問題は人間である以上、常に付きまとう。
そして単に美しい響きだけを楽しみたい時もある。
この2点からガルネリ・メメントを残して、交互に楽しみ、飽きの訪れを
意識的に回避している状態である。

これが、20代の私のオーディオ観、並びに実践であった。

2. オーディオ機器・環境に対する考え

1章では重点的に、そして丁寧に書いてきた。
この章では、各機器における私の考えを述べる。
(この章以降は、5章を除き、1章より簡略して述べる。)

2.1 共通事項
まず、オーディオ機器の共通事項を述べる。
オーディオ機器は実に様々音を出す。この認識はこの10年間多くの機器を
所有し、多く試聴を繰り返してきた経験に基づくものである。

音楽全体を生々しくリアルに出す機器、音楽からエッセンスを抽出し
それを提示する機器。豊かな音色で鮮やかな音を出す機器、逆に
水墨画のように、単色で濃淡の世界を現わす機器など・・・。
挙げればキリが無い。

そして、日本の製品と海外の製品では音に大きな違いがある。
(全てとは言わないが…)

・日本製:音楽自体はいじらず、特定の周波数帯を主張することに
     重きを置く傾向にある。解像度は高めだが、音色は少なめ。

・海外製:音楽を徹底的にして解釈してリスナーに提示する傾向が多い。
     解像度はピンキリで、音色は豊かなものが多い。

これら色々な音がある理由は、技術的な違いとも言えるのだろうが、
究極的には開発者が音楽を「そのように」解釈した結果であろう。
そしてそれは「音楽の多様性」を裏付けるものであると認識していて、
私は、どんな音楽にでも敬意を表すると同じく
多様なオーディオの音があることを嬉しく、素晴しいことだと考える。

2.2 スピーカー
最終的に音を出す機器である。機器の中では一番重要なところである。
選択には妥協無く選びたい、いや選ぶべきだ。

そして、導入したら、可能な限り多くのセッティングを試みる。
スピーカーが消えるということが実現できるまで。

ところで、このスピーカーが消えるという現象だが、私は上述したとおり、
B&W 805で体験した。それは、特にB&Wの800シリーズがスピーカーの
存在を消し、音楽を空中に浮遊させるということに長けているから
である。
しかし、一度スピーカーが消えるという経験をすると、ほぼどんな
スピーカーでもそれを実現させることができる。

そもそも、オーディオ初心者はスピーカーが消えて、空中の
あらゆるところから音が聞こえる現象を知らないのだ。
それ故、セッティングの基準を知らない。
或いは、ある程度の期間オーディオを趣味としている人でも、
セッティングを煮詰めたことがなく、音色だけで選んでいる人は、
その現象を知らない。

しかし、一度それを味わうと、安価(ペア5万以下)なスピーカーでも
それは可能となる。(事実、家にあったケンウッドのKシリーズという
ミニコンポで実現にできた。(セッティングにはかなり時間が
要したが)
K

スピーカーは音の方向性を決めるものなので、徹底的に選ぶ。
一度購入したら、例えどんなアンプ、プレイヤーを使っていても
スピーカーが消えるという基準でセッティングを試みる。
それが実現するまで、その他要素は変更するべきでない。
(それができないと、アンプ、プレイヤーに何を求めるのか、
 曖昧になる。)

これがスピーカーに対する私の認識であり、考えである。

2.3 アンプ
プレイヤーから送られた信号を増幅し、スピーカーを駆動する機器。
プリメインアンプ、セパレート型のプリアンプ、メインアンプがある。

アンプの種類によっても音は変わる。スピーカーほどではないが、
プレイヤー以上に変化する。

アンプには強烈な体験がある。量販店で怒られた。

当時、LuxmanのL-509fSEを使っていたが、リモコンが無いため、
非常に不便していた。そして買い換えを検討した。
そのときはまだ、経験不足だった。この世界にはどんな音があって、
自分はどんな音を好むかを把握していなかった。

なんとなく試聴をお願いしたところ、どんな音を望むか訊かれた。
私は戸惑った。そして怒られた。その店員は50代くらいで、
当時20代前半の私は相当若く見えたはずで、L509fSEを使って
いるにも関わらず、好みを知らないことにビックリしていた。

そして、その店員は、ほとんどの国産アンプはダメだと言い放った。
音楽性が無いと。
勧められたのは、CECかARCAM。どちらかを購入して、その良さが
わからなければオーディオをやる資格が無いとまで言われた。

私は、その時その場を離れ去った。店員から説教される経験は初めて
だったからである。そして内心、怒りがあった。

しかし、今思うと非常に良い経験だった。その店員は音楽に対して
真摯な人だったのだ。
何度かARCAMを試聴しているうちに、抑揚があり、聴いていて非常に
楽しくなることに気付いた。

私は結局ARCAMを買った。

Arcam_tech_2006

そして6年ほど経つ今も使い続けている。

解像度という点では、国産アンプ(Laxman、アキュフェーズ)に数歩劣る。
しかし、音楽を「楽しく・明るく」描写し心を躍らす。生の音楽を
聴いて、心が躍るのと同じように。

このときから、私はTADを除いて、全て海外の製品を購入するように
なっていた。

さて、話は戻る。
アンプはプリメインアンプ、プリアンプ、メインアンプの
3種類あるが、可能であれば、セパレート型を持っていたい。
音のきめ細かさ、密度感がまるで違う。そして、音の広がり方が
圧倒的に違う。プリメインアンプは音の広がりが、二本の
スピーカーの間にほぼ集中する。しかし、セパレートアンプは
音がスピーカーの間と、外、奥に広がる。部家の制約もあるだろうが、
8畳以上あれば、セパレートに行っても良いと思う。

私は、初めプリメインアンプで様々に音が変わる事を認識した。
それからセパレートアンプの凄さをLuxman本社の試聴会で気付き、
いつかはセパレートと思い続けていた。
そして昨年ようやく、完全なセパレートアンプを手にした。
その時の向上はすさまじく、昨年のブログに書いた通りだ。

2.4 プレイヤー(DAC)
CDプレイヤー、SACDプレイヤー、トランスポート、DAC。。
これらも機器によって音が変わる。しかし、その変化は気付きにくい。
(しかし、ある程度高性能なスピーカー、アンプを導入すると、
その変化は敏感になる。)

Majik_2 

そのため、導入順序はスピーカー、アンプ、プレイヤーが相応しい。

ところで、そもそもプレイヤーで音がかわるという経験を
どこでしたかというと、自宅であった。

高校生の時に買ったミニコンポのCDプレイヤーがきっかけであった。
そのコンポ購入から数年後、大学生の初めにSHARPのアンプ内蔵DVD
プレイヤーを買った。しかし、このDVDプレイヤーはCDを上から縦に
入れなければならず、使い勝手としては悪かった。
そのため、ミニコンポのCDライン出力DVDのライン入力を接続し、
聴くようになった。しかし、なぜだか音が違う。特に低音の出方が・・・
ソニーのミニコンポの方が、スマートで、さわやかだった。
これがCDプレイヤーも吟味するようになったきっかけであった。

ちなみに、レコードは残念ながら、一度も自分でかけた経験がない。
生まれた時からCDが出ていたようで、すでに時代はCDとなっていた。
レコードは試聴会で聴く程度である。

レコードプレイヤーもいまだに新しい機器がでているが、
それよりもディスクプレイヤーはまだまだ発展途上だろう。
その理由は、ディスクプレイヤーはこの10年で大きく変化したからだ。
恐らくだが、ディスクプレヤー(特にCD)が世に出た当時から2000年
直後まで、CDは「新しいメディア」として、レコードと対比的に
高域が強く、そして音が薄かった。(音が薄いため、それを悟られないが
ために、音の輪郭をとくに主張したのかもしれない。)

Dcss103_2005

しかし、2010年前後、まずはTAD-D600でレコードに匹敵するくらいの
密度感、低域を出してきた。
(DENONも音だけは厚いのだが、音楽要素が少ないと感じている。)

そして、今まで高域が独特で強いエッジが代名詞だった、ESOTERICが
K-01でその音を大きく変えてきた。高音が非常に滑らかで、
レコードの溝を連続的になぞるように、高域に美しさが認められた。
これはESOTERICとしては大きな決意が必要だったはずであり、
積極的に音楽を解釈した結果だった。(なお、K-03以下のモデルは、
これまでのESOTERICの音を踏襲している。)

後にCH PrecisionやdCSから新たなプレイヤーが発売され、それらも
レコードのような量感をもち、レコードをついに超えてきたと
思わせる音であった。

手持ちのTAD-600を作ったTADは数年間は後継プレイヤーを出す
つもりは無いと断言していた。(購入当時の2011年の話)

D600

しかし、TADから発売されなくても、ディスクプレイヤーの音は
発展し続けて続くだろう。
なお、ネットワークプレイヤーという利便性に富んで、
しかも(LINNのものは)結構音が良いという優れものがでてきた。
これも私は一製品所有しているが、KLIMAXを含めて、この音は
まだまだで、ネットワークプレイヤーはスタートしたばかりと考えている。

2.5 ケーブル
ケーブル。

論議が多い、各機器を繋ぐ導体。

これは私は変わると感じている。(機器の変化よりは小さい)

しかし、この分野には積極的に手を出していなかった。
それは2点の理由からだ。

・指標が無い。高ければ良いという物でも無く、相性を合せるのが
 非常に難しい

・資金がそこまで回らなかった(ケーブルに回すより、他の機器が
 変化が大きかったからだ。)

 そういうこともあって、ケーブルには全然お金をかけていない。
 このブログで初めて公言するが、1本1,000円程度のケーブルを
 使っている。

 (但し、スピーカーケーブルはカルダスを使っていて、
  カルダスを繋いで聴いたときの変化には驚いた。)

 そして現在、ケーブル泥沼にハマらずいるのは、私にとって最適で
 最高の機器を手に入れてたことによって、本当に重要では無い部分
 (=ケーブル)に関してそこまで敏感になる必要が無いからである。

Sp25

しかし、やはりケーブルは些細ながらも音は変わると感じている。
現在までに経験上変わると感じているケーブルのは、以下の通り。

 ・スピーカーケーブル
 ・バランスケーブル
 ・同軸デジタルケーブル

未体験は、電源ケーブル、ラインケーブル。
(あとはUSBケーブル、LANケーブルだが私には関係無い分野)

電源ケーブルは付属のものを使っている。
ラインケーブルはあまり癖のないと思われるビクターのケーブルで
接続している。10年近くビクターケーブルを使っていたこともあり、
私の中でリファレンスであり、あまり変えたくない点でもある。

本当であれば、Jorma Designのケーブル等も試してみたいのだが、
私にはそこまでの金銭的余裕は無かった。。。

今後の発展する余地?かもしれない。

2.6 部屋
スピーカー、あるいはそれ以上に大事な部分。しかし、なかなか容易に
手に入れられない部分でもある。

私の部屋だが、実家でオーディオをしていることもあって、AVALON
ユーザーとしては狭いだろう。

部屋に関しては、オーディオ雑誌などを参考にし、そして試したところ、
長方形の部屋であれば、辺の長い方にスピーカーを置いた方が
音の広がりが増す。将来的には、部屋を積極的に作っていきたい。

2.7 アクセサリー等
アクセサリーは効果の高いものと少ないものがあると感じている。
経験上で大きく分けると次の通りである

・音が良くなる可能性が高い
音響パネル、スピーカーボード、インシュレーターの有無

・音が良くなるか不明(悪くなる可能性あり)
クリーン電源、ノイズフィルター

・未体験
オカルトグッズと呼ばれる製品全般、ラック

なお、ラックは自作の物を約10年間使っている。
見栄え的にはクアドラスパイア等の既存製品を使った方が
断然いいのであるが、自分自身で使いやすいように設計したラックは
非常に使いやすく、手放せない。

Rack_2

( 1センチ単位でボードの高さを調整できるようにしていて、
どういう高さの機器を入手して収容可能なので、何かと便利
なのである。)

ブログで度々述べているが、アクセサリーは音響パネルが素晴しいと
感じていて、導入意義があると思っている。

ただ、それ以外はあまり積極的な意義は感じず、
(金銭的な意味も含めて)現時点はあまり求めていないのが現状である。

3. 私のオーディオ活動

私のオーディオ活動を述べる。活動は大きくわけて、聴くこと
読むこと、書くことの3つに分類できる。

なお、購入することは、私のオーディオにおいて普通のことであり
あまり特筆する点はない。
ただし、唯一の方針がある。それは、変化の一番大きいところ
見極めて、徹底的に試聴して妥協せずに買う。
この方針が購入の特筆すべき点であろうか。

以下、3つの活動を述べる。

3.1 聴くこと
これは音楽を趣味とするものにとっては最も基本的でいつでも
ここに位置し、そして時に離れたとしても最終的には戻る点だろう。

まずは、自宅で好きな音質(再現方法)で好きな曲を聴くこと。
これが第一目的である。

もし、好きな曲がなく、好きな音質、もっと言うと、作曲家の世界、
神髄に触れることを究極に求め、その神髄を蘇らせることを徹底的に
求める態度がなければ、ピュアオーディオをやる意味は無い
と私は考えている。

もしそのような真剣な態度が無いのであれば、ゼネラルオーディオでも
構わないだろう。

そして、聴き方を研究する。これは5章で詳しく述べるが、
聴き方によって、再現される世界が変わる。一つ一つの音を丁寧に
聞いたり、少し遠ざかって全体を眺めてみたり。真正面で聞いたり、
ゴロゴロしながら聞いたり・・・。

私は、自宅で音を聞く以外に、試聴というものを良くする。
今となっては、あまり積極的に行なわないのだが、それでも目新しい
もの関しては、聴く。試聴の意義は、世の中にどのような音を出す
機器が存在するかを知ることだ。そして私の中で整理し、好みか否か
ふるいにかける。私が本当は何を欲しているのかを知るためである。

この一連の行為を何度も行い、音楽の再現方法の多さを知り、
広い世界で私の好みを一点に集中させて行く。そうすることで、
揺るぎない、他者にまどわされない、私が真に望むシステムが完成する。

なお、システムが一通り完成した後の試聴は積極的にオススメ
できない。曖昧な理由や妥協によってそれを機器を導入している場合
は尚更である。というのも、完成後に色々試聴をして、所有する以外の
機器で好みの音を発見した場合、今持っているシステムが急に陳腐化
してしまう可能性が大いにあるからである。
ただし、そういった場合でも落ち着いて音の特徴を整理し、何度も何度も
ふるいにかける。今の機器、気になる機器。どちらを真に求めるか。
そして出た結論に進めば、次こそは揺るぎないシステムになるだろう。

オーディオショー。ショップのイベント。これは年に最低1回以上は
行くことを心がけている。
それは、上記試聴目的もあるのだが、新たな音楽の発見があるからである。

オーディオショーでは、実に様々な曲がかかる。販売店の店員の趣味
であったり、参加者が持ってきたお気に入りの一枚であったりする。
そして、オーディオをやっている人は、私よりほとんど年上だ。
そのため、音楽に関する知識は私よりも遥かに長けていて、様々な音楽を
知っている。普段、テレビで流れないような、普段生活していては絶対に
聞けないような音楽が流れて、時にそれに魅了される。たとえば、演歌は
馴染みがないのだが、会場でそれが再現されたとき、演歌歌手の声の響き
に惚れ惚れとし、「演歌って良いなぁ」と初めて感動したということもある。

オーディオショーは私、販売店員、他のリスナーによる音楽情報
交換所として認識し、活動の重要な一つであると考えている。
事実、この活動で、私の音楽ジャンルは相当に広がった。

3.2 読むこと
読む活動は、自宅で音を聴くことの次に多い。
試聴、オーディオショーよりは多く、毎日のように行なっている。
それは主にインターネット(ブログ、コミュニティ、掲示板)であり、
今のトレンドと、どういう機器があるかを知るためである。
インターネットは雑誌を読むより手軽で、雑誌(月1回や季刊毎に発売
される、限られたスペースしかない媒体)と比べるとインターネットは
情報量が多く、新鮮さがある。

しかし、この活動に集中しすぎて、これを基としてピュアオーディオを
するのは間違っている。あくまで自分自身で聴くのが第一である。

インターネット上では、雑誌は原稿料やメーカー等の思惑によって、
バイアスが掛かっているという主張を目にする。だから、個人の
感想がニュートラルだというのだが、私からすると個人の感想も
「好み」という強いバイアスがあると考えている。そのため、
半分信じて、半分は信じない。信じない部分は、試聴で補い判断する。

一方、鮮度の低い雑誌の方であるが、これは相当読んだ。
入門期は幸いにもピュアAU板すら知らず、ググる事もせず、本に
オーディオ機器の音を求めた。
(学生時代、あまりインターネットをせず、勉強において
 必要な情報は文献が基本としていた。その習慣がオーディオにも出た)
そして、一般的なセッティング方法や、入門~ステップアップの
基本的な方法を学んだ。最初からインターネットをやっていたら…
酷く翻弄されていたかもしれない。本当に幸いなことであった。

Sp_how_to_2
 『スピーカーに強くなる4』スピーカーと室内 音響の実験Ⅰ

上述の読むという行為は、音を知るという目的であった。
しかし、読むという行為にもう一つ目的をもっている。
それは、音の語彙、表現、観点を知る事(増やす)ことである。

音を表現すると言っても、評論家によってまるで違う。各評論家で
語句が統一されていないから参考にならないという人もいるのだが、
逆に1人1人違う言葉で語ってくれた方が、音を言葉で表現する方法を
増やすという点ではかなり有益である。

人間の考えるという行為は、言語を用いて行なう。従って、その音が
好みかどうかをふるいにかけるときは、たいてい言語で行なう。
(私はあくまで直感というものは大事にしたいというスタンスである。
 しかし、具体的にそのことを思いだそうとすると、やはり言語
 で再生するしかない。例えば、ぽーんっと飛んできたっていう
 直感的に近い表現でも、既に言葉にしているのであり、そのぽーんっが
 具体的に自分の何を突き動かしたのかを明確にする必要がある。)

そのため、表現を増やしておくことで、自分の好みかどうかをより
じっくりと吟味できるようになる。
(特に、音は見えないものであり、音の具体的特徴記憶に残そうとすると、
 一度言語に直して記録に留める必要がある。)

言葉同様、読むことで、音の観点、切り口を知るようになる。
これはインターネットも有益である。評論家も新たな切り口を探している
だろうが、インターネットの方が評論数が圧倒的に多く、その数だけの
切り口がある。

特に有益だと思うのはインターネット上で、上質な記事(客観的で、
比較が多く、その機器を特質を浮き彫りにさせるようなレビュー)を
書く人、或いは、上質なポエムで、その人が体感したオーディオの世界を
ありありと見せてくれる人がいる。
そういう方々の文章を目にすると、気が引き締まり、自身のオーディオへ
の取り組みが一層深く、そして様々な観点からの「耳」を持つようになるの
である。

私の読むという行為は、最新情報を知るため、音を知るため、そして
様々な表現技法と新たな「耳」を得るために行なっている。
 
3.3 書くこと
私は主にこのブログを通じて、オーディオ機器の試聴レビュー、
導入した機器のレビュー(導入に至る迄のプロセスを含む)を書いている。

その書くという行為の第一目的は、自分自身の為に行なう。例えば、
私を激しく突き動かすような音を聴いたとき、ほとんどの場合、
魅了されて言葉を失う。そして聴き終わってから「今のは何
だったのだろう」とその音(の凄さ)を理解したい、反芻したいが為に、
必死になって特徴を形容する言葉、表現を探す。(言語に変換する)

そして、頭の中で整理し、書き下す。この書き下すという行為は
その時の音をより正確に具体的に言語に変換することが要求され、
人間の「曖昧で忘れやすい記憶」ではなく「正確な記憶(記録)」となる。
とどのつまり、その時の音を忘れないようにするのである。
そして、必要に応じてそれを参照し、言葉で音の体験を引っ張り出す。
そういう記録を数々残す事で、私の中に刻まれる音が増えて、
オーディオに対する見方がさらに深まり、広がるのである。

そのために、書く。

(なお、書くという行為は、言葉・文章表現について、読む時よりも
桁違いに敏感になり、そして書いた後はそれまで以上に多くの
言葉を獲得している。)

第二の目的は無目的、いや結局は自分のために行なっている。
例えば、やはり凄い強烈な音に出会ったとき、その音で心が
突き動かされる。そしてその突き動かされた結果、人々は踊り、
涙し、描き、造形し、書く。(結果は人それぞれである。)
私は踊り、涙する、書く。そしてその目的は・・・わからない。
それは私が欲求したのではなく、言語化が難しい、無目的の
何らかの非常に強い欲求からなのである。(しかし、その欲求を
満たさないと私は満足できないため、行なう。結果的には
自らのためになっている。)

(この無目的の欲求に関して色々考えたのだが、より深い洞察が
 必要だという結論に至り、そして、ここで結論を出す必要も
 ないので割愛する。)

第三の目的は、他者のために行なっている。
レビューとしてインターネット上に残すことで、誰かのお役に
立てれば・・・という気持ちである。それは、私もインターネットで
レビューを拝見しているので、その恩返しという気持ちも含む。
(ただし、レビューを乗せる時はだいたい第一目的を含んでいる。)

書くこと・・・それは決して容易では無い。しかし、敢えて文章に
するのは、音の記録を残したいと思える素晴しいオーディオに
巡り会えたという結果でもある。

いつしか、私はそのようなオーディオに出会った時、
その音に恥じぬような文章を書きたいと思い始めた。

それは、他の方のブログを見て、オーディオに関して熟考し、
簡潔に書いていることを見たときである。特徴ある文体、そこから
感じる強い精神、オーディオに対する真摯な態度。とても強い。

それに憧れた。

やがてこの憧れは、ショーペンハウエルの『読書について』
(思索、著作と文体を含む本)を読んだときに決心に変わった。
私もそのような先輩方と同じように、オーディオに真剣に向かい合い、
徹底的に考え、私の言葉で書こうと。

しかし、今はまだ、全然実現していないだろう。
単に熟考し、真剣に向き合おうとする態度になったという程度であろうか。
私は今後、私の言葉を持ち、そして、簡潔に述べることを実践の中で
学んで行きたい。
(なお、この記事は私の考えを徹底的に書きだそうという考えから、
 「簡潔に」ということを最初から確信犯的に放棄した。)

Tuner

以上、私はオーディオ活動として、聴くことを第一とし、それを
書くことに変換し、書くことに変換するために読み、読んでまた
聴く。この絶え間ない連鎖は、全て良い音を聴くためにという
強い思いからである。
この強い思いが熱いオーディオ活動を支えている。

4. レコード演奏家

Stereo Soundのコーナーの一つであるレコード演奏家。

私は、冒頭で述べたように、これまで多種多様なオーディオ機器と
出会い、自身の好みの音を徹底的に考えてきた。

そして、このオーディオという世界を実現するには、以下のような
人々がいて初めて成り立つことも知った。

 ・作曲家
  天賦の才によって得た、観照した世界を音という物でのみ表現する人。
  そこで創られた音楽は多様性を含んでいる。

 ・演奏家
  作曲家の創った音(楽譜)を忠実に再現しようとする人。
  時には独自の解釈を入れて、作曲家の世界を実際に音にする。

 ・録音家 
  演奏家が奏でる音楽を、その演奏場から音楽のみを真摯に切り
  抜こうとする人

 ・オーディオ機器
  開発者が見た音楽の世界の神髄を解釈し、それを技術によって
  再現しようとした道具。

そこには、ほぼ共通して、感動 -作曲家の世界の神髄に触れること-
がある。

そういう認識の中で、レコード(音楽を記録した音盤)を再生する
側にも様々なアプローチ方法があると考えるようになった。

これは音楽に惚れ込み、作曲家の考える世界に触れ、
私が感動した世界をオーディオを通して如何に再生するかという試み、
挑戦である。これは、まるで演奏家が作曲家の作った譜面を
どのような楽器を使って演奏するかと同じように、レコードに
記録された音をどのような楽器(色々な音が出る機器)を用いて
再現(即ち演奏という要素を含んでいる)するのと同じである。

この試みは実に面白く、そして難しいと知った。
オーディオ機器は様々な音を出すが、予算的制約、場所的制約があり、
個人が入手できる機器は限られている。
そして、音楽をオーディオシステムで音を出すその瞬間は、
1種類のスピーカー、1種類のアンプ、1種類のプレイヤーだけである。
幾通りもある機器をどのように組合わせ、作曲家が見た世界に触れるか、
再現(演奏)するかを、究極的に考え、結論を下す。

これは私が感じた世界を実際にオーディオを通じて、レコードを
「演奏する」行為に他ならない。
そして、その時のオーディオから出る音は、その人生・哲学を端的に
現わすとも言って良いだろう。

音は人なり。

音楽、作曲家の世界の神髄を再生する事に徹底的にこだわる人。
そのような人には家(か)という言葉を冠するに相応しいのである。

私がオーディオ初心者だったときは、レコード演奏家という表現を
滑稽だと思った。しかし、今となっては、その言葉が非常に奥深く、
なんて適切な表現だろうと感じている。

その概念を初めて提唱した人、評論家 菅野氏は、オーディオが
どのような物であるかを深く洞察し、オーディオの可能性、
音楽の神髄にふれる行為を徹底的に考えた人である。
私はレコード演奏家という概念を世に提示し、言葉にしたこと、
そして日本各地にいるレコード演奏家(≒オーディオ愛好家)と
出会い、そのレコード演奏家が奏でる音楽に徹底的に向き合い、
時に褒め称え、時に厳しくバッサリと切り捨てるその姿勢に
感動を覚えた。 
私は、オーディオ評論家の菅野沖彦に敬意を表する。

Cremona
菅野氏が賞賛し、私も使っていたソナスファベール「クレモナ」
ふくよかな低音と美しい中高音が特徴。

5. オーディオ総括

5.1 オーディオ私観、結論
結局私はオーディオにおいて何を感じてきたのか。
「1.3 オーディオ全体に対する私の考え」で述べた通り、神経を
研ぎ澄ませ、何度も同じ曲を聴き、そして精神世界の繋がりを
求めていたことは提示した。
しかし、繋がった後に関しては述べていなかった。

オーディオによって繋がったあと、何が起こるのか。

それは、作曲家の精神世界と出会うにことよって、私の「固定的で
限定された」世界が音楽で突破され、作曲家の精神世界と私の精神が
限りなく同一となる。そして、リスナーである私は作曲家の世界に、
その作曲家が意図する世界の変化に同調して動き出す。
その時の私の精神、そして心理・思考共に従来のパターンとはまるで
違った形で突き動かされるようになる。

次第に私は没個性、没慣習、忘我の状態になり、ただ音楽に動か
されているだけの純粋な存在へ変化する。旋律、音色、音の強弱に
よって、私の肉体の色は鮮やか目まぐるしく変化し、私の体の
大きさは絶えず縮小・拡大をするようになり、響きによって空中を
飛び回れるようになる。

これは普通の感覚ではないだろう。
私はこの境地に至ったとき、通常の一般世界、そして人間という
枠組み・制限を超えて、この世から独立した 音だけの存在になる。

この境地に至ると、美という概念も消え失せ、時々突如として飛んで
くる作者の完全なイメージを観照し、そのまま受け入れ、そして
ただただ、作曲家の世界を飛び回る存在となる。

私はこのような体験を非常に欲していた。というのも、幼少~成年に
なるまで、いや成年以降もがんじがらめの固定世界に居続けることを
強要されていた。
別の私になりたい、別の世界へ行きたい、世界から受容されたいという
極めて激しい欲求。

そして私はオーディオに出会い、運命をB&W 805で聞いたとき、
(今思うと)無我の体験をし、ベートーヴェンの新たな世界を垣間見て、
涙した。私は曲がかかっているとき、私のこれまでの
世界から確かに独立し、まったく別の世界に入っていた。

Bw_805s

このような体験は初めてで、音楽の凄さを体感した。(その当時は
オーディオがその体験を容易にしてくれたことには気付きことは
無かったが・・・)

結論。オーディオは作曲家の世界と私の世界を結びつけ、そして
私を無我の境地へと誘い、作曲家の世界に没入し、最終的に
この世から独立した存在にさせてくれるものとだと考えている。

・個々の音

さて、結論と述べたのだが、オーディオというものをより深く洞察
すると、まったく違うものが見えてくる。

実は、このまったく違うものは最近まで自覚していなかった。
しかし、私は無自覚にそれを欲し、オーディオを通して無自覚に
満たしていた。
この無自覚の何かは、最近突如として沸き上がり、強烈な形で私の
目の前に現れた。そして全身全霊をかけて言葉にしたいという強烈な
思いに変化した。

このまったく違うものとは一体何か。それは、生と死を高速に
行なう世界に突入し、自分自身も生と死を繰り返し、
ついには自らの精神世界がこの世から浮遊し、どこの世界にも
属さなくなり且つ完全な私になるというものである。

この論は、少し、いやかなり飛躍していることは認める。

これを説明するためには、オーディオに関して、これまで以上に
細かく分析する必要がある。

上述した作曲家が表現せんとした世界とは、結局のところ、世界という
総体であって、多くの場合一体となったものである。そして、作曲者、
指揮者は基本的にはその世界が分割されることを想定していない。
それは、オーディオを揶揄する言葉に端的に示されている。

「指揮者は音を融合しようとするが、オーディオマニアは
 音を分離させようとする。」

作曲家は、様々な旋律を入れながら音楽に深みを持たせるが、
それは豊饒な響きをもつ音楽、即ち多様な世界を表現したいという
目的であって、積極的に分解されることを望んでいない。

(作曲家が積極的に行なうのは、見た世界を時間の流れにそって
様々なメロディーを絡ませて音にすることだ。つまり、
見た世界を様々なメロディーを通して時系列的に説明しようとする
試みであって、その結果として、多彩な音が含まれてしまっただけである。)

さて、揶揄の件であるが、オーディオマニアといっても、音楽、
音への捉え方は色々あり、一概にオーディオをする全ての人が分離を
求めるとは言えない。

しかし、揶揄にあったとおり、オーディオマニアの一種には、
確かに徹底的に音を分離し、一音一音まで分解する者がいる。

私もその1人だ。

これは、ミクロ視点から音楽を捉えようとする試みである。
そして、あの揶揄は、そもそもオーディオはそういう聴き方が
できるということを強く暗示している。

(一方、マクロ的視点からというのは、音の分離を求めず、
オーディオを通して構築された「純粋な音だけの世界」を通して、
作曲者の世界全体に繋がる=なることである。)

この徹底的に分離をするという聴き方は、一定以上の性能を
有する機器、そして特定の組合わせによって構築されたシステムに
しか行なうことができない。

そのようなシステム条件とは、次の通りだろう。

 (1)スピーカーの存在が容易に消える
 (2)対峙している空間のありとあらゆる場所から自由に音が発生する
 (3)認識できる響きの数が極限まで増大している(情報量が多い)
 (4)響きの発生点を明確を指し示すことができる)
 (5)残響が極めて長い

 Criterion

もしそのようなシステムに出会ったとき、ここから出される音は、
生演奏とは全く別のものである(別の聴き方ができる)ことに
気付くだろう。

この時のリスニング姿勢は目を閉じて視覚情報を捨て去るのではなく、
むしろ目を開け視覚器官をふんだんに使い、一瞬一瞬の旋律を切り分け、
切り分けた音の発生点とその響きの方向、響きの到達点、消失点を
徹底的に観察する。
(目を閉じても構わないが、目を閉じた世界の中でも音の位置を
強く想像する必要がある。)

このような聴き方をすると、連続的である音楽から、楽器、音色、音階、
位置、残響という多くの切り口から音(響き)を無限に分割・抽出できる。
(これはリスナーの能力?に依存するだろう)

この行為によって、分割によって出来た多くの音・響きというものは、
音楽の中から絶えず現れ、そして発生した音はいつか消えていくことが
わかる。そして、その繰り返しが音楽というものを作っていることを
再認識させられる。

徹底的な観察をする場合、私の考えというものを排除し、
意識を対象のみにぐっと近づける必要がある。そして、究極に
近づけたとき、私自身が対象と同一、つまり、私自身が一音一音に
なってしまう。
(一音一音をよく見て、よく聞き、よく想うと、私の中には一音一音しか
存在しなくなり、スピーカーから出ている一音一音と私の区別が
わからなくなり、ついには私自身が一音一音になったかのように
感じる。いや、感じるという主体さえなくなり、完全に一音一音に
なりきれる。)

さらに、この徹底的な観察は、視覚情報を使って位置を特定すること
でもあるが、この特定は生演奏とはまるで別物である。オーディオに
おいて視覚情報を初めて使うのは、音が発生した直後であり、
音が発生する前は、空間のどこから発生するのかほとんど予測できない。
それに対し、生演奏は最初から楽器が存在し、聞く者はどこから音が
発生するのかが容易に想像できる。そして音が出た瞬間、聞く者は、
そこから音が出てきて当然という一種の安堵すら覚える。

オーディオの場合は違う。

空間のどこから音が発生するかという緊張をもって待ち構える。
どこから出てくるのか、逃すまいと真剣勝負である。そして、音が出た
と同時に、「それっ」と瞬間に意識をそこに向けて、響きと残響、
そして消える最後位置を確認する。

その行為の意味は瞬間的に発生し、そして瞬間的に無くなってしまう
「はかなさの世界」を感じることであり、新たに誕生してくる世界へ
期待していることを意味する。加えて、音(楽器の響き)の
純粋な美しさを堪能したいという願望であり、音の不思議さ
(即ち、音(響き)の自由さ、偶然性は見方・聴き方によって無限に
変化しうるといこと)を極限まで感じたいという願望である。

(なお、その願望は、元々は音の総体である音楽というものへの
 リスペクトから発せられたものである。やはり、音楽への感動が
 あってこそのオーディオなのである。)

さて、徹底的な観察によって分解される一音一音であるが、その意識は、
特定の一音に向けられるのでは無い。音楽を奏でる楽器全ての旋律を
音に分解し、この瞬間に発生している音・消えつつある音全てに同時に
意識を向けるのである。そして、意識した全ての音を私と同一視させ、
私が全ての一音一音へとなりきるのである。
(正直、この聴き方はできる人とできない人がいると思う。)

するとどうなるか。私は、空間に漂う様々な音となり、ある瞬間で
区切って見ると、そこには、様々な音、即ち、様々な私が存在
している(様々な私に成っている)ことになる。
そして、時系列的に見ると、音というものは絶えず発生・消滅していて、
つまり、私は絶えず生まれ、絶えず死んでいるのと同じこととなる。

さらには、音楽において独奏・独唱以外は、楽器は単一ではなく複数の
楽器で構成されていて、生まれたての音や消えゆく音が同時に様々な
形態で存在していることが分る。いや、ソロでも同じような事が言える。
奏者は一つの音程の音を空間に放った後、すぐ次の音程へと移っている。
このとき、最初に放たれた音は消えゆく音(響き)になっていて、
今生まれてきた音と同時に存在する。

つまり、何が言いたいかというと、音となった私は、存在と消滅を
すなわち生と死という状態を同時に実現しているということである。
そして、音楽が生まれては消える音という絶え間ない生死の繰り返しに
身を委ねることで、私はこれまでの私ではなくなり、新たな自分へ
生まれ変わることができる。瞬間瞬間の命、これが幾重にも重なる
ことで、私は存在していて、同時に存在していない状態が成立する。

少し纏めよう。
オーディオには、マクロ的視点とミクロ的視点での聴き方がある。

マクロ視点は、音だけに純化された世界で音楽全体を
聴いて、作曲家の世界と繋がる。これによって、私の
世界が別の世界となり、時系列的にいかようにも
突き動かされて、この世界から羽ばたくことができる。
世界からの脱出、世界の変化。

ミクロ視点は、音楽全体から音を切り取って、その響きを
味わうとともに、徹底的に音を意識し近づくことで、私自身が
音となり、絶えず生まれて、絶えず死にゆく私となる。そして
多くの音が同時に生と死へ向かっていることから、音となった
私は生と死が同時に激しく成立している状態なのである。
無常。存在と消滅の同時成立。

そして、オーディオは、マクロ・ミクロのどちらかだけで
聞き続ける必要は無い。同じ曲でも、ある時はマクロ的、ある時は
ミクロ的に聴いても良いのである。

それは、さながら、子どもが蟻の行列を熱心に見ていている様子に
例えられる。

子どもは、蟻の行列を、遠くから眺めて流れを感じ、そして
ある時には非常に近くで蟻一匹一匹を見て、その視点の絶えず移り変える。
これは蟻への認識を集合・離散することと同義であり、やがて蟻=世界の
移り変わる様をいつまでも楽しむようになる。
(子どもの集中力はすさまじく、蟻を見ているときは、世界が蟻だけに
なってしまう。そして因果を知らず、分別も無い。そのため、
大人とは異なった見方、発想をする。)

オーディオも、子どもの「見る」と同じで、時には作曲家の
力強い、或いは はかない世界を味わい、私自身の世界の変わる様を
楽しみ、この世界からの開放感を味わう。或いは、ある時は音に
注目することで、一つ一つ響きの本当の美しさと私の絶え間ない
生と死を味わい、この二つの観点を交互に移動することで、
私の世界と私は激動し、ついには、世界そのものから抜けだし、
有と無を同時に含んだこの世には有りえない世界に到達するのである。

※私は、AVALON Diamondとガルネリ・メメントという
 対極の音色、対極の形状を持つ機器を揃え、交互に聴く事によって、
 飽きという、世界への固定(ひとつの世界での繰り返し)を避け、
 常に新しく生まれ、そして死ぬということを繰り返していたのである。

Guarneri_memento_2 

・狂気的なオーディオ

非常に長々と書いてきたが、なぜ、私はここまで書くのか。
なぜここまでオーディオの事を考えるのか。
そして、なぜ20代で相当な金銭を使い、オーディオにこれ程までに
狂気的に身を投じてきたのか。

それは、私の過去と切っても切れない関係がある・・・。

私は幼少からある激しく固定された世界で生きていた。そして、
そこは厳しくそして狂気の世界でもあった。さらに、
義務教育というもののせいで、学校という全く違った理を持つ
世界に直面・仮適応しなければならなかった。
二つの世界の価値観に翻弄される私は、疲れ切っていた。

そして、私は、高校入学時、強い意志をもって、固定された世界と
決別した。しかし、それまで生きてきた世界の思想が、無限に
襲ってくる。

実は、私は大人になれない存在であると思っていた。
(大人になることを想定していなかった)そういう私が大人に
なったとき、なぜ私は大人になっているのか、大人になってしまった
私はどうすれば良いのか・・・大きな虚無感に見舞われた。

(この3点はこの記事を書くまで「無自覚な恐怖」であって、
 ハッキリと自覚していなかった。しかし、私は無自覚にその恐怖から
 救いを求めていた。)

私は、大学4年時、文学に傾倒した。近代以降の純文学と呼ばれるもの。
そこには文字だけで鮮やかに世界を再現させようとする作家の
不断なる格闘がある。そして、純文学というものは、作家は主観を廃して、
この世界の本質、人々に潜む何かを垣間見ることにも徹し、それを敢えて
文字にしようとするのである。

的確な言葉、卓越した文章を読み続けることで、いつのまにか
私は文章では無く、作家の見た世界を垣間見た。

没入感。

純文学が好きになったのは、その没入感が面白いという理由もあったが、
それ以外に大きな理由があった。上述の通り、二つの価値観で翻弄されて
きた私は、結局そのどちらにも適用できず、どちらとも落ち着ける場所が
なかったこと。それにより、没したかった。

私は作家の世界というものを見ることで、私を没し、落ち着ける場所を
探す必要のない存在、つまりどこにも属さず、どこにも属さないで良いと
いう強さ、安心感を得たかった。

しかし、文学というのは、私にとってあまりも静的で、変化に乏しかった。
そして、作家はその目で見た世界の問題・本質を顕わにしてくれるのだが、
解決には至らなかった。 良くても同意までである。

例えば近代での1テーマであった虚無というものに同意したが、私の
私の人生(虚無感)を切替えるほどのものでは無かった。

私は、文学に傾倒すると同時に、オーディオへの入り口に立っていた。

あの「きっかけ」があってから、より音楽が身近になっていった。
そもそも音楽自体は、空虚な私、どこにも属せない私という
存在に対して、全く異なる世界を提示し、力強く私を突き動かす。
それは振り子のように二つの価値観にのみ揺れる単調な動きを
堂々と、そして遠慮することなく違う動きへと変化させてくれる。

オーディオは先に述べたとおり、マクロ的視点では、私を別の世界へと
誘い、その世界は文学以上に大胆に、そして激しく変化させる。
そして、没入していること自体忘れさせてくれる。
それは即ち、没入という行為への強力な後押しだった。。

ミクロ的視点では、私は生と死を絶え間なく繰り返すこと、無限の反復に
よって、過去からの無限の思想と対立する力を有した。それは一つの曲を
聴く事だけでも実現可能で、さらに、音量少し上げる(下げる)だけで
生と死のパターンが変わり、スピーカー、アンプ、プレイヤーを変えても
さらに違う形態をみせるのである。その多種多様な生と死を繰り返す状態に
なっている間は、私は無限となり、無限の過去を克服した

さらに生と死を両立することで、私は常に有って、常に無くなるという
この世の普通の認識・状態から抜け出し、自然界・人間界には無い別の
何か、いや、恐らく完全なる世界(イデア?)を見るに至った。
     

哲学者ショーペンハウエルは『意志と表象としての世界』において、
イデアは元来一つであり、全てを含み、変化しないが、自然界に
現れる場合は時間、場所の制約によって、イデアが分裂し現れると言う。
即ち、この世の各現象はイデアが分割されたものであり、逆に言えば、
それらを同時に見ることで、イデアを見ることが可能となる。

そして、音楽というのは、作曲家が観照したイデアを可能な限り
音で再現したものである。つまり、音楽には全てのものがつまって
いるのである。しかし、時間的制約から、全てのものを一瞬で
現わすことはできず、その世界を再生する場合は、時系列的に
その世界を「細切れ」に「音」でしか現わすことしかできない。
それでも、音楽はイデアという世界のありとあらゆるものを
含んだものだからこそ、聞き手の観点によって様々に
解釈することができ、オーディオで様々に再生することができる。

私がオーディオを通して見た、有と無が、生と死が、動と静が同時に
存在しえる世界は、ひょっとしたら、全てを包括するイデアなのかも
しれない。
私は、オーディオを聴いている間、すなわちオーディオを通して
(イデアを)観照している間は虚無というものに打ち勝つ事が出来た。

私は、そもそもオーディオを求めていたのではなく、過去を
打ち破る強力な力を死にものぐるいで求め、それが結果的に
オーディオだったようだ。
(ただし、私が感動させられたのは音楽がほとんどで、私は
視覚よりも聴覚が鋭く(敏感で)、音そのものが好きだったから、
オーディオへの帰着は当然のことだったのかもしれない。)

・まとめ
オーディオは芸術である。

それは音楽という芸術を現代技術によって音に純化させ、発展させ、
ついには容易に音楽の世界、生演奏では捉えることが出来なかった
新たな世界を見せるに至ったものである。

現代の新たな芸術と言えよう。

私は多くの投資をしてきたが、現時点ではこのような境地に達した。
そして、聴いている間は、過去、そして現在から完全な決別し、
新たな美しい世界、完全な世界を発見することができた。

そういった理由で、私はオーディオに巡り会えたことに感謝している。
そして、こういう機器を生み出した先人の発明、現在も果敢に
世界を鮮明に描写しようとする機器を作るメーカー・開発者に
敬意を表する。

これが、私の10年間でオーディオに対して認識してきた事であり、
考え・行動である

5.2 今後のオーディオ
実に長く書いてきたが、まず、私にはゆとりが無いと感じた。
真っ白なキャンパスに文字を埋め尽くし、他者の介入を許さない
ようである。直進的で、一方的だ。

もっとおおざっぱで良いのではないか?
もしかしたら、年を重ねることによって、そういう心境に
なるかもしれない。その時、私のオーディオも変化するかもしれない。

しかし、現時点では崇高なる音楽に対する態度は、どこまでも
真摯でありたい。したがって、それを再生するオーディオにも
真剣でありたい。いまのシステムは私にとって相当の満足を与え、
過去の問題を(聞いてくれる限りは)解決してくれる。

現時点でこのシステムを変えたいという意志はない。

ところで、友人、雑誌、ネットを通して、オーディオというものは
変わっていくものであると認識している。
環境の変化、家族構成の変化、心境の変化。
ある人はより大きなシステムに、ある人はフルレンジSP魅せられて
縮小する人がいる。

Hayate_1

システムの変化を自発的に望んでやる場合、強制的にさせられる
場合がある。どういう理由で変化するか、これは極めて重要なこと
だろう。

現時点で分っているのは、おそらく、ずっとこのシステムを維持する
ことはできない。
それは、少なくとも経年劣化という自然の理から逃れられない
からである。もし、そのような時が来たらどうするか?

私が音楽を愛し続ける限り、そして、私の問題が最終的に解決しない
限り、同じようにオーディオを求め続けると思う。
(そもそも無限の反芻や虚無、存在の不確かさという哲学的
領域に及ぶ問題を私が根本的に解決できるのだろうか?)

今後の事は、いまは まだ だれも まだ 知らないから、
積極的に追い続けていたい。そして、今後は直線的で一方的ではなく、
受容性をもち、この素晴しいオーディオ芸術というものを
世に広めていきたいと思う。ブログ、あるいは、実際に聞いて貰う等…。

現代という時代に生まれた奇跡、現代の技術芸術を享受できる時代、
それを楽しみつつ、そしてそれで感動する人が1人でも増えてくれればと願い、
私の20代のオーディオに区切りを付けたい。

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後記

ここまでの長文を読んで頂き、ありがとうございました。

私のこの10年間は、普通のオーディオファンからすると
少し異常で、速すぎるものだったかもしれません。

しかし、今思うと明確な理由があります。それは狂気の中での生誕、
狂気に満ちた幼少、10代があり、そして「無自覚な恐怖」から
脱出を求めていたからです。そこでオーディオの素晴しい音楽世界に
出会い、無自覚に救いを感じていたのです。
私は狂気な環境に対して、オーディオという狂気で立ち向かうことが
必要(救い)だったのかもしれません。

さて、この無自覚であったものが露呈したのは、先日、父が
亡くなったことからでした。

私は父の死をきっかけに、私はこの20代で何をやりきったのか、
どこに到達したのか、ハッキリさせたいと思い始めました。
等身大の私で、20代最後という今の私の言葉で。

この10年間、一心不乱に打ち込んできたものがあることに気付きました。

それが音楽、オーディオでした。

全身全霊、可能な限りのお金をかけて。

そして、ついにそれを整理し、文章として表わすことができました。

私の経験、感じたことは私にとってあまりにも膨大で、文章として
書き表すにはまでに、多くの言葉、考察、整理、時間が必要で、
何度も苦悩しました。。

しかし、それは一瞬で解決しました。
それは久々にメインシステムのAVALON Diamondを聞いた時です。
無限なる響き、音楽という崇高なものが目の前に現れ、
その瞬間、無自覚だった恐怖が露呈され、明確に理解し、
一時的に全身、全霊からその苦悩が解き放がれていくことを
感じました。そして、一瞬で文章の整理がつき、強い衝動と
それに応える強い意志を持って、一心不乱に書き続けました。

私は、オーディオによって成長することができました。

しかし、これは1人では成し遂げられなかったでしょう。
多くの人に支えられて、ここまで辿りつけました。

20代の大半を過ごし、私を受容してくださったハヤテスレの皆様
その皆様が居たからこそ、私は「続いた」のだと思います。。
そしてより親密にして下さったH様。本当に助けられました。

Hayate2

私と同じような悩みをもち、交流頻度はすくなかったものの、
今なお続いている高校の親友Y君とのメール。

ツイッターで出会った人々。
特に、強い・素直な意志を持ち、文章化できるTご夫妻。
(とくにTご主人からはオーディオ、そして人生の様々な
 アドバイスを頂きました。)

書くということの大切さ、そしてこの世に対して様々な物事の
見方を教えて下さった大学の恩師、S先生。
先生は私たちが卒業しても、今なお私たち卒業生・在校生に、
ほぼ毎週、世の中の新しい情報、見方、そして、時に問いを、
メールで配信してくれます。
その先生の学門と世の中に対する真摯な態度が、私のオーディオに
対する姿勢を作ったのかもしれません。

そして、その大学に私を推薦して下さり、私に世界の構造、問題を
知るきっかけを下さった高校の恩師、Y先生。
Y先生は私を生徒会長にも推薦して下さり、そのおかげで
私の高校生活は色鮮やかに光輝きました。

その高校に行くきっかけを作ってくれた親友のM君。

大学卒業後、学術的文章ではなく、会社でビジネス/技術的文章と
そのビジネス/技術的ロジックを、じっくり書く(考える)時間を
くださり、そして徹底的に添削して(教えて)くださった、
ネットワークエンジニアのK先輩。
私に文章というものを再考するきっかけを与えてくれました。

そして様々な著書。
特にショーペンハウエル
 ・『読書について』(思索、著作と文体を含む)
 ・『意志と表象としての世界』

外山滋比古
 ・『思考の整理学』

怒って下さった店員。

感動の原点。私に音楽の世界へ誘い、この世とは全く違う世界を
見せてくれた作曲家、作詞家、歌手。
 ・ベートーヴェン
 ・L'Arc-en-Ciel
 ・鬼束ちひろ
 ・坂本真綾
 ・ワーグナー
 ・シベリウス
 ・水樹奈々(及びその制作に携わっている人々)
 ・中島愛(たまゆら1期に関係する曲全て)
 ・鈴木このみ(さくら荘のペットな彼女 前期ED『DAYS of DASH』
       なお、この番組のヒロイン椎名 ましろの狂人性を見て、
       逆説的に天才性を垣間見ました。
       そして私はショーペンハウエルの理解に近づきました。)

私のはじまり。即ち、私の生誕から狂気を与え続けてきた両親(特に父)

皮肉的ですが、この父とその狂気がなかったら、私のこの狂気的な
オーディオもなく、この世とはまったく違う崇高な世界に到達
できなかったでしょう。

最後に弟達。私はあまり出来の良くない長男でしたが、
弟達によって本当に助けられました。
特に、私に純文学、哲学(ニーチェ、ショーペンハウエル)、
音楽(ワーグナー)の素晴らしさを教えてくれた、今は亡き弟のM。
彼は天才でした。

私の20代は色々な方のお陰で、10代とは違う鮮やかな時を送ることが
できました。
私に関わって下さった皆さまにこのブログを通じて、お礼申し上げます。

ありがとうございます。

私は、今年、ついに30歳へと突入します。

hayate

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2011年2月26日 (土)

ピュアオーディオの本質を考える

いわゆる純文学というものには、作家の深い洞察によって
人間や世界の本質と問題をあらわにする他に、
文字という要素だけで世界を構成し、その世界を現実以上に
ありありと見せてくれる特徴がある。

そして、後者に関しては、作家独自の巧みな技法と、
そこから浮遊した世界に美を感じる事がある。

学生時代、この文学で感じた美と、
ピュアオーディオは何か通じるものを感じた。



通常、音楽というものは、楽器があり、奏者、
歌手がいて初めて奏でられる。

そこには、ハッキリとした存在がある。

そして、聞き手は奏者の音の他に、
奏者の姿、様子、他の観客の様子、会場の空気感等、
様々な情報を通して音楽を体験をする。

しかし、ピュアオーディオはまるで違う。
スピーカーを除き、空間には何も存在しない。

ピュアオーディオはそんな何もない空間に、
音だけで見事に世界を浮かび上がらせて、リスナーと対峙させる。

2本のスピーカーの間にスッと定位して響き渡る歌声、
小さい音ながらも刻み続けるシンバル、床面を揺るがすようなコントラバス。
まるでそこに奏者がいるかのような生々しい音。

奏者が見えるような音で、
手を伸ばせば触れられそうな不思議な感覚・・・。

無い世界を一瞬で有へと切り替えられるこの行為は、
ピュアオーディオならではの醍醐味だろう。


しかし、ピュアオーディオの本質はさらに深くにあると考える。

音だけの世界、すなわち、それは音以外の情報を
捨て去った世界である。

それゆえ、他の情報に埋もれていて感知し得なかったわずかな音色の違い、
音の形や低音の衝撃、細かな表現技法や音楽のダイナミズムが際立つ。

それら純度化された音に対して、人間の持ちうる全神経を研ぎ澄ませて
向き合うとき、突如音楽の顔が現れる。

それは文学のように文字だけで世界を表現しきった時のあの、
作者の世界を生々しく見るような感覚と同じように、
洗練された音によって、作曲者、歌い手の表現せんとする世界が
突如ぽーんと顕現する。

ここに、ピュアオーディオの本質と美がある。

この世界を垣間見てしまったゆえ、ピュアオーディオの
虜になってしまった人は多いだろう。

私もその一人だ。

ピュアオーディオというものは、無の空間から世界を構築し、
かつ音楽の神髄に触れられる現代の技術が生み出した
新たな音楽様式である。

私は、これを一つの芸術であると思っている。

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[後記]
文章表現が稚拙すぎて恥ずかしいのですが、
以前から思っていたことを書いてみました。

このような思いは、大学2年頃・・・今27歳なので、かれこれ7年前でしょうか、
オーディオに凝り出した大学の時から、ピュアオーディオの持つ
独特の世界は何なのだろうと思ったときから始まりました。


文学を読んでる最中に、まるでオーディオを聞いてるような感覚に
陥ったり、逆に音を聞いてるときに本を開いてるような感覚になることが
しばしありました。
特に、本・オーディオに真剣に向き合っていればいるほど、
文字や音楽を超えた共通する感覚(世界?)がパッと体の奥からわき上がり、
そして純粋な世界をとても美しく思えてしまったのです。

音楽と文字は異なる情報(媒体)ですが、どちらとも単一の情報によって
構成される疑似世界であり、そこから感じ取っている世界は最終的に
同じなのではと思っています。

いまでこそ、かなりのオーディオシステムとなってしまいましたが、
この感覚を初めて得たのは大学生の時で、システムも入門レベルでした。
(スピーカーは実売3万円程度のものでした。)

ただ、スピーカーはスタンドに乗せてセッティングを詰め、
聞くときはノイズ源(PCやらテレビ等)を落として聞くなどの
オーディオ鑑賞としてできることはしていました。

そんなシステムでも、時折ふっと歌い手が「現れる」ことがあり、
その現れた世界が純粋に楽しかったのです。

(システムのレベルが上がると、それはさらに
容易になり、大きなスケールへと変化します。)

今はピュアオーディオは敷居の高いもの(私自身も未だにそう感じてます)と
なってしまい、一部の人だけがやる趣味となっています。
(昔はそうではなかったらしいですが)

まぁ、衰退をとりまく背景は色々あって、当然そうなっても仕方がない
状況だと思うのですが・・・この趣味で少しでも良い時間を過ごせる人が
増えたらいいなぁと思っています。

hayate

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